『ごんぎつね』と出会うまで

MORITORATION_Vol.6【前編】

『ごんぎつね』と出会うまで

黒井健 Kuroi Ken絵本画家

彦坂木版工房・もりといずみが、さまざまな作り手にインタビューする「MORITRATION」。
第6回のゲストは『ごんぎつね』(偕成社)など数々のロングセラー絵本を生み出し、いまもなお新しい表現に挑戦し続ける絵本画家・黒井健さん。僕にとって一番年の離れたお友達であり、尊敬する大先輩。黒井さんのこれまでの作家人生を伺ってきました。

もう引退したつもりなんだ

もりといずみ(以下、もりと):現在の仕事のペースはどれぐらいですか? 年間何冊とか教えてください。

黒井健(以下、黒井):気ままですね。あんまりたくさん受けてないというか、受けてないというと不遜なので、依頼がないというべきなのか。
私、本当は引退したつもりなんだよ。依頼されていた本をすべて描き終えたの。ずっと待ってもらっている責任があるからね、8年物とか、依頼から20年経ったとか、そういうすべての責務を全部終えた。もう受けられる年齢じゃなくなったから。「あと何年待って」って言えなくなったんで、「もう受けられません」って。
それともう1つは、自分の絵にあきました。

もりと:そういう境地に至るんですね。

黒井:そうだね、なんだろう。次への好奇心がないっていうかね。と言いながらまた次の絵本をつくってるんだけど。よくわかんない(笑)。ただ、とにかくすべての責任を果たしたと思って、もうこれ以上責任持てないっていうのが、引退の理由なのかな。

もりと:これからたくさんインタビューしようと思ってるのに、これでは終わっちゃう流れじゃないですか(笑)。

「東京」と呼ぶ声がして

もりと:仕切り直して、昔の話を伺っても良いですか。黒井さんが絵本の仕事をはじめる前、学研で編集者をされていた頃のお話を。

黒井:学研に入ったのはね、新潟大学を出た年、1971年の夏かな。卒業してから3カ月間は就職浪人をしてたんですよ。というのも、当時ちょうど「イラスト」って言葉が生まれはじめた頃で、在学中に友だち3人ぐらいで、学校の集会室を借りてイラストレーション展っていうのを開いたりしてたの。そこから、イラストレーターに憧れるようになった。それで新潟の新聞社系のデザイン事務所に内定をもらってたんだけど、卒業間近になって、頭の中で「東京」っていうのよ。

もりと:ん? 頭の中で、呼び声が!?

黒井:「え、東京? 東京行くのか」と。「どうしよう。でも、東京行かなきゃ」と思った(笑)。それで新潟のデザイン事務所に何も言わずに、東京に行きました。
時代的には、ちょうどパルコが開業した頃。『an an』や『nonno』が生まれて、女性誌が華やかだった頃。
でもポートフォリオを持って、東京のデザイン事務所に面接に行っても、どこも雇ってくれないのさ。それで困ったなぁって、アルバイトしながら毎日暗澹たる思いで過ごしていた。で、ある朝、新聞を見てたら、なんかキラキラ光る記事があったのね。見たら「絵本編集者募集」とあった。

もりと:そこがキラキラしているということは。

黒井:うん。でもどうせ受からないんだろうって。だから床屋にわざわざ行く必要もないなって思って、髪も切らずに受験したんだよ。そしたらあれよあれよと最終面接で「黒井さんは絵本の部署志望だけど、そこがいっぱいだったらどうしますか」って言われて、「どこの部署でも、仕事しながら待ちます」って言ったら「そうですか、じゃあ結構です」ってもう終わり。すっかりあきらめてたら、内定通知が届いてね。

もりと:すごい! でも、「東京」って呼び声の次は、キラキラ光る記事。何かに誘われたんですね。

黒井:不思議だよね。大抵の自分の運命なんて、運というか偶然というか。
あっ、偶然で思い出したけど、面接中に「あなたはどういう絵本が好きですか」って面接官に聞かれたの。それはきっと質問されるだろうなと思ったから、それまで絵本にまったく興味なかったんだけど、面接の前に本屋さんに行っていろいろ見てたら、いわさきちひろの『あかいくつ』っていう絵本があって、それだけ覚えて。
それで「いわさきちひろです」って言ったら、「そう。いわさきさんが好きなの」って、とってもうれしそうだった。あとで知ったんだけど、その面接官は幼児誌編集部の編集長で、いわさきさんの担当だった。

毎月の企画提案で絵本を学んだ

もりと:黒井さん、持ってるな(笑)。 『あかいくつ』も光ってたのかもしれないですね。
その後、学研に入ってどんなことをしていたんですか?

黒井:『よいこのくに』っていう保育月刊誌に配属されたんだよね。そこでは、いろんな絵描きさんや作家さんに会っていくんだけども、企画会議が一番頭を抱えるよね。提案してもなかなか通らないのさ。
当時の局長は画家志望の人だった。「絵本を編集する以上は、絵のことも考えてちゃんと依頼しろ、企画は絵を描いて提示しろ」って言われて、それが伝統だった。だから私は「この人に依頼したい」と思うと、その作家の絵本を全部机の前に積んでさ、その人風の絵で描いた。編集長や先輩に「黒ちゃんさ、そこまで丁寧に描かなくていいから、もっと簡単でいいよ。」って言われながらも、「いや、何とか通したいんで」って、一日中絵を描いていた。

もりと:学生の頃のイラストの技術がここで発揮されたんですね。しかも、それって「作」をつくっちゃってるようなもんですよね?

黒井:作はつくってないよ。……あ、つくったこともあるか(笑)。
年に12冊、それを毎月やってるから、そこで勝手に絵本を学んだんだろうね。
そうやって描いたものを会議で見せると、「もう黒ちゃんさ、やめて絵描きになったら?」って言われはじめて。

もりと:もしかして、ここから絵本作家に?

黒井:真に受けてはいなかったんだよ。でもあるとき、「別の本の編集やらない?」って聞かれて、一晩考えても、ほかにやりたい本がなかった。そのあたりで、自分に編集者としての展望がなくなって “やめなきゃ” と思いはじめたんだろうね。
それである日、打ち合わせの約束に作家さんが30分経っても来なくてさ。ようやく来たと思ったら、普通はまず遅れたことを謝るでしょ。謝らないんだよ。座るなり、「さっき、面白いものを見てね。真っ黒い塀の上に、シャクトリムシが歩いてたんだよ。黄緑色がきれいでさ、それでずっと見てた。上手なんだよね、歩くのがね」なんて言うんだよ。あっけに取られてさ。この人はこういう時間の過ごし方をしてるんだ、私とは全然違うなと思って。こういうのっていいかもな、と。

もりと:僕はそれ、無理ですね(笑)。

黒井:いや、なんていうか、時間の使い方の魅力っていうのかな。会社での自分の10年先、20年先を考えたときに、「ああ……」と思ったんだろうね。それで辞表を書いて。

表現行脚の末に見つけた、ぼかしの技法

もりと:辞表は思いきりましたね。でも、そこから絵本作家の道が開けたんですね!

黒井:いや、絵本作家になろうと思ってやめたんじゃないんだよ。そのときに憧れたのは相変わらずイラストレーションで、ファッション画がやりたいと思ってた。ちょうどファッションイラストレーションの公募展があって、応募したらいきなり受賞したんだよ。
それで、その賞をきっかけに女性誌の結婚特集の依頼が来た。だけどね、打ち合わせをしているときにふと気になって「結婚特集ということは、ひょっとして男性も描くんですか?」って編集者に聞いたら「そうですね」って言うから、「すみません、描けません。男は描けないんです。」って断っちゃたの。その後、これではファッション画の仕事はできないなと思って、途方に暮れはじめて。そのうち女性も描きたくなくなったんだよ。理想が描けなくなった。なんでしょうね。

もりと:幸先よかったのに、悩んじゃいましたね。

黒井:自分の進路をストップするんだよね。つき当たってしまう。そこで、どうしようかという繰り返しの悩みだよね。
でも、いろんな仕事は来るんだよ。学研の先輩たちが、大変だろうからっていろいろカットの仕事をくれた。週刊誌から百科事典から、ほとんどすべての部署から依頼をもらってた。
絵ができあがったら、自分で配達もしてたんだよ。夜の12時頃に電話が来て、「黒ちゃん、5cmあいちゃったんだよ。捨てカット描いて」って。「はい、わかりました」ってすぐ描いて、オートバイに乗って届けてた。重宝な人よ。安い早い、うまいかどうかは知らないけど、イラスト界の牛丼屋みたいな(笑)。

カットの仕事 1
カットの仕事 2
カットの仕事 3

もりと:昔はもうバリバリイラストレーターだったんですね。でも、悩みながらたくさんの仕事をやるって、なかなか大変ですよね。そういえば、このときはまだ黒井さんのほわぁ〜っとしたグラデーションのタッチのものはないんですね。

黒井:その後だね。あるとき、『詩とメルヘン』(サンリオ)のジュニア版の『いちごえほん』という月刊誌から木暮正夫さんの『虹のかかる村』という作品の依頼を受けて、その絵を描いたのね。そのときに初めて、色鉛筆をぼかして描くという自分の技法が決まった。霧を描いているときに、もう自分の中で恍惚感があった。それまでは水彩、アクリルガッシュ、日本画の絵具も油絵具も、果てはぬいぐるみをつくって撮影したり、自分の表現の行脚をしていた。だから、ぼかしの技法を見つけたときは、こういう絵を描くために生まれたのかもしれないと思ったね。

『虹のかかる村』の表紙
『虹のかかる村』の本文

最後の絵本のはずだった『ごんぎつね』

もりと:そして、1976年に出された『あめってあめ』(矢崎節夫/作 ポプラ社)が黒井さんの絵本のデビュー作ですよね。

黒井:それが書店での市販本のデビューだね。それまでに月刊誌では一冊ものを結構描いてたけど。

もりと:そうなんですね。イラストレーターとして活動しながら、もうすでに絵本の仕事をやっていたんだ。
『あめってあめ』からちょうど10年後に『ごんぎつね』(新美南吉/作 偕成社)が出て、黒井さんはホームページの中で「この物語との出会いがなかったら今の私は考えられません」と『ごんぎつね』について文章を寄せていますよね。この10年の間だけでも70冊近い絵本を出版されていたのに、『ごん』を描くまでは悩みながら絵本を描かれていたということですか?

『あめって あめ』の表紙

黒井:絵本というのは、子どもたちに喜んでもらうために描くものだと教わったし、明るくてかわいくて楽しい、それが童画のセオリーと、編集者時代に学んでるんだよね。『よいこのくに』で渋い絵を依頼したいと思っても、必ず「暗い絵はだめだよ」と言われて。そういうものだと思ってやってたけど、行き詰まったんですよね、子どもたちのために描くというのが。
そんなときに『詩とメルヘン』で描くようになって、大人の詩を読んで、それを自分で受け止めて、「そうだよね」とか「いや、ちょっと違うかな」とか、自分の心の中でコミュニケーションが生まれてきたの。子どもたちが喜んでくれるもの、大人が与えるものっていうのではない姿勢からの作品づくりもあるんだなって。そのときに「自分はこういう視点で絵を描くこともできるんだ」と発見できて。
そうやって『詩とメルヘン』で繰り返し描く中で、あそこで連載している画家たちの完成度に負けないようにと、とにかく頑張った。もう、必死だったんだろうね。それである意味、表現力が上がっていったんだと思うんだ。その表現と、絵本が融合したのが『ごんぎつね』。

もりと:そういうことだったんですね。ちなみに、『ごんぎつね』は迷ったまま原画を出版社に提出した、というコメントも見かけましたが、それというのは?

黒井:自信がなかった。それまでのセオリーにまったくしたがっていないから、これで絵本として大丈夫なんだろうかと。輪郭ははっきりしないし、暗いし、きれいな色がない。だけど文章を読むと、それしか出てこない。描き直す次のイメージがない。
その頃は絵本のセオリーに従うことの苦しさ、行き詰まりを感じて、もう自分は絵本に向いていないんじゃないかと思っていて。これで売れなかったら絵本をやめる。最後の絵本にするつもりで『ごん』を描いてみようって。だからこそ、受け入れられた喜びは、ものすごく大きかった。
それまで、悲しみを主体とする、そういう視点で『ごんぎつね』を描いた人はいなかったんですよね。伝わらない悲しみっていうのは、私にもあったのさ。次から次へ描いても描いても、出た絵本はどんどん消えていく、っていう。自分の思いは一体なんなんだろうか。なんのために描いてるんだろうかって。今、分析すればね。
きっとあの1年前、1年後だったら、『ごんぎつね』はできてない。本の生まれ方って、偶然だと思う。計算ではできないよね。

『ごんぎつね』の表紙